とさを商店近辺、長宗我部・香宗我部家ゆかりの地などの歴史MAP

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※補足 1~10赤岡町 11~13野市町 14吉川町 15,16香我美町 17~21夜須町

  1. 与楽寺、現在当店の場所

    赤岡で一番大きな寺。明治の廃物令で取り壊す。香宗我部親泰(長宗我部元親の実弟)の長男・親氏が朝鮮戦役で戦死し供養塔のあった寺。参勤交代の際、山内一豊の本陣(宿泊所)であった。
    大聖歓喜雙身天主で秘仏。男女混交佛。一代限りで顕著なご利益があるという。
    現在、高知銀行(赤岡支店)駐車場裏に溝があり、排水は香宗川へ落ちている。恐らく溝から西側が、與楽寺の境内だったであろう。

  2. 長木屋(現在の「道」と「おっこうや」)

    長木屋・和蝋燭の老舗。県東部で最大の製造量を誇り藩邸へも献上。また、参勤交代の一豊が脇本陣(家臣等の宿泊所)とした。文化五年(1808)伊能忠敬(日本地図作った人)が測量の際にも宿泊。石油ランプの普及で燭製造を止め、質屋と酒造に転職。
    現在、古民家を再生しカフェ「道」(タオ)と雑貨屋「おっこうや」(※別サイトが開きます。)が営業している。

  3. 須留田山と城山

    城主・須留田式部入道心了は、元弘三年(1333)「足利尊氏の配下で軍忠致すべく」との誓言文が残っているので、須留田城は香宗我部氏の出城の一つかもしれない。須留田氏の創生期は土器作で、火の神・八幡を祭り定住したのではと云われている。古老の話・大徳坊屋敷が本当の須留田城で強力武威のため城山に本城を設けた。須留田一族滅亡の史実の記録がなく、また須留田姓も近世に名が残っていない。

  4. 濱五郎兵衛の住居跡(現在絵金蔵,弁天座)

    絵金蔵と弁天座の場所には、現在の赤岡町があるのはこの方のおかげといっても過言ではない、濱五郎兵衛の居宅跡。彼は元々現在の徳島県、日和佐城主で(日和佐権守正儀)主家・細川氏の滅亡とともに十八歳の時に大阪天満で暮らしたという。その後、長宗我部元親に召され赤岡町へ移住し、塩を製造する。当時の赤岡町は、大忍庄(昔の地名)の一角で香宗我部親泰(元親の実弟)の傘下にあった。「赤岡の塩市」は与楽寺周辺で始まり、物々交換が盛んになった。現在でも当店の西側には塩屋というお餅屋さんがある。
    関が原後山内家が入り、徳島・蜂須賀家政に呼ばれ日和佐へ帰省。士分無役50石。
    現在は絵金蔵(※別サイトが開きます)弁天座(※別サイトが開きます)

  5. 聖ヨセフ教会と白首お蝶の話

    白首お蝶の話、浦上キリシタン男囚70名の改宗のため、三階の遊女を派遣したが、唯一人として手を出さなかった。遊女お蝶は心に信仰を持つようになり、明治六年宗教の自由令により帰郷する老囚から、小さいクリスを胸にかけられた。お蝶は年期開け後、郷里で布教に努めた。後年、お蝶の子女らが昭和7年、赤岡で8人ほどの浦上クリスチャンが獄死した。その鎮魂のため教会を建設。戦後老朽のため昭和40年代に改築。
    この頃教会の裏に青涛保育園があり、園歌は詩人・岡本弥太作。園名も命名。

  6. 野市屋旅館跡と植木枝盛

    明治期に植木枝盛(自由民権運動の理論的指導者)が宿泊し、寺尾梅太郎(地元の蔵元)や小松与右衛門(赤岡初代村長)らに自由民権を説いたという。

  7. 伊能忠敬測量点

    伊能忠敬測量の地・北緯33度33分の標識は、道路拡張の際に紛失し、現標は平成20年新設した。場所も小松邸の角から移した。高知市の江の口川下流域に33度33分33秒の標識がある。

  8. 塩の道起点

    赤岡の創始者・濱五郎兵衛の製塩により、近郷から与楽寺山門付近で物々交換が盛んになり、横町商店街の基礎を創った。その山門辺りで餅屋を営んでいたという餅屋を「塩の道」の起点とした。

  9. 西川屋

    元禄年間、藩主山内家へ「銘菓・梅干」を献上した昔話は有名。当時は與楽寺境内に工房を造り藩主に謙譲したという。また「ケンピ」も当家自慢の菓子。

  10. 高木酒造

    当店の斜め前の酒蔵「高木酒造」※別サイトが開きます。昔は「喜久娘・雪柳」の銘柄を持っていた。大正六年、寺尾酒造倒産後、銘酒『豊能梅』の商標を高木酒造が、杜氏とともに買い取ったという。現在5代目さんが新商品開発等にも力をいれている。詳しくは前記のリンクから。↑↑

  11. 香宗城跡とおみせ(西屋敷跡)

    長宗我部元親の時代に実弟親泰が香宗我部家の養子となり、安芸氏攻めの拠点とした城。慶長五年(1600)関が原後、一国一城制により取り壊す。香宗城は長方形で1500㎡の広さといわれている。現在は城の土塁(敵の侵入を防ぐ壁)に八幡様が祀られている。

    親泰が香宗我部家の養子になった経緯には、下記のような話がある。
    香宗我部通長没後、親秀(親泰の義父にあたる人)が家督を継いだが、安芸氏と和喰(高知県の東部)で戦い大敗し、一子秀義が戦死した。そのため親秀は弟の秀通を養子として家を継がせ、香宗城北屋敷に隠退した。
    ところが、長宗我部国親(元親・親泰の父)の勢力が香宗我部の勢力圏に侵出するようになり、東の安芸氏からも圧迫を受け、香宗我部氏の没落は必至という情勢になった。これを打破せんとした親秀は、長宗我部国親の三男親泰を養子として迎え、長宗我部と香宗我部の連合体制を作り上げようと企図した。しかし、それを進めるにはまず、養子の秀通を引退させなければならず、親秀はこの旨を秀通に話し了解を求めた。
    しかし、秀通は申し入れに反対の意志を表明した。弘治二年(1556)の冬。秀通の西屋敷が夜襲に遭い、三人の郎党と撃って出たが、乗馬の首を切り落とされ、秀通は西屋敷に戻り自刃、屋敷に火を放った。西屋敷こと、現在の「おみせ」には殉死した八人の家臣と、愛馬の塚があり、「首なし白馬」の伝説を生む。秀通の子、泰吉は中山田姓を称して親泰をよく補佐したと言われている。

  12. 宝鏡寺跡

    香宗我部家に養子に入った親泰が天正十三年(1585)、菩提寺(※1)として建立した宝鏡寺の跡である。敷地内には現在、観音堂と祇園社が残っており、親泰および嫡男親氏の五輪塔(供養塔の一種)をはじめ、もともとの香宗我部一族、中山田氏の墓もある。明治4年に廃寺となる。

    ※1菩提寺(ぼだいじ)とは代々先祖の位牌を納めてある寺。

  13. 吉原城跡と祠

    吉原城跡とは長宗我部元親の祖父にあたる兼序(かねつぐ)、父にあたる国親(くにちか)に関係の深い場所である。
    兼序は岡豊(おこう)城を拠点としていたが、本山氏を始めとする近隣豪族によって攻められ落城してしまう。落ち延びた兼序は、吉原城にかくまってもらっていた。しかし、その場所もばれ千熊丸(のちの国親)は幡多(高知県の西部)へ脱出するが、兼序は自刃してしまいます。吉原城も落城し城主丁野帯刀も死亡しました。
    現在、吉原城跡の西側に長宗我部兼序、丁野帯刀の祠がある。また隣に二基の墓があり、兼序と殉死した武士のものだろう。

  14. 若一王子宮と参道

    若一王子宮は長宗我部元親の信仰が厚く永禄四年(1561)に改築し、神領(神社の領地)千石と八丁道(参道の名)を寄進した。大正年間に道は拡張されトロッコ工事の写真が残っている。

  15. 姫倉城跡

    この城跡は安芸国虎(高知県の東部)の前衛基地で、永禄十二年(1569)元親が国虎に和睦を申し入れたが聞き入れられず姫倉城を攻撃。城主・姫倉豊前守は200騎を引き連れ何度も打て出ては寄せ手を敗走させるが、数多の寄せ手に叶わず、安芸へ落ちる途中、元親に降伏する。矢流れ決戦には元親の参謀として参戦。戸次川の戦いで戦死。末裔不明。

  16. 夜須八幡宮

    京都の岩清水八幡宮(祭神は応神天皇)を勧請。姫倉城攻めに焼失し、長宗我部元親が天正二年~九年(1547~1581)に再興。

  17. お茶屋跡

    旧手結坂の峠近くに藩政時代からのお茶屋があった。寛永年間幕府巡見使の接待、参勤交代や旅人の休憩所だった。現在は国道のトンネル西口でお餅屋を営業している。

  18. 尼ケ森城

    尼ケ森城は上夜須クスダにある。吉田備後守重俊が城監。この城の後に二丈松の砦があり、夜須川を堀とし、土塁で固めた戦国期の城としては最高の遺構だという。この城の西に釣鐘森城と宗円城が一丁ほどのところ隣合わせにあるのは、北からの安芸国虎軍への防御に備えたものであろう。

  19. 釣鐘森城跡

    永禄の頃は長宗我部氏の属城で吉田重俊が城主であった。

  20. 宗円城

    宗円城主・宗円八郎左衛門の先祖は京都から荒神神社を移した神主。永禄十二年(1569)、長宗我部家に属し63石を領した。「安芸国虎征伐」で討死した。